日本語学校 参与観察の備忘録

実態を社会学的にみてみよう。

客観視できなくとき 参与観察の危うさ

個人的な趣向として、観察の立ち位置はなるべく距離を保ちたい。客観的記述をしたいと日々心がけている。しかし、日々職場にいるといつの間にか当事者になってしまう。そして、見え方も価値意識も自分がそのコミュニティで社会化することにより、見えていたものが見えなくなってしまいそうになる。
あるトラブルに直面したときに、副主任の先生から、当事者が対応するより他の人が介入した方が効果があると指摘された。その時、自分自身がその現象の一部を構成していることに気づかされた。つまり、その時点で客観ではなくなっているのだ。
永遠と続く質的研究の議論に、改めて気づかされた。構成する一部であったとしても、どういうスタンスをとるのか、自分なりの考え方を整理しようと思えた出来事である。

まあ、ここではフレームワークもへったくりもないので、深く考える必要もないのだが。ただ自分も気づかないうちに客観視できなくなることに不安を覚える。