日本語学校 参与観察の備忘録

実態を社会学的にみてみよう。

地元の商店街と留学生

学校の側にある商店街を散策する。商店街は随分昔からあるもので、その地域の観光地のような紹介をされることもある。しかし、現在ではシャッターが閉まっている店も多い。商店街の組合に話を聞いたところ、商店街は近くの日本語学校の留学生で活気づいているという。そのため、商店街を散策するためのパンフレットを多言語化しようという話があっているという。魚屋や肉屋、総菜屋等、様々な店から話を聞いたところ、1番盛り上がりを見せている店は野菜を安く売る八百屋だった。留学生はダンボール単位でジャガイモを買ったりしているという。また、店のおばちゃんと仲良くなり、おばちゃんはよく留学生が買う野菜の名前をネパールやベトナムの学生から教えてもらっているという。日本のお母さんと慕うネパールの学生も多いようで、一時帰国した時はおみやげを買ってきたり、日本語学校を卒業するときに挨拶にきたりするという。また、ネパール学生御用達の格安洋服屋もあり、そこの店主はネパール学生の好みに合わせて服を仕入れていると話す。

商店街からは留学中を歓迎する声ばかりを聞いた。アルバイト先では人材不足の穴埋め的な扱いをされ、銀行や役所、アパートの住人からは煙たがられる対応を受ける中、こんなにも留学生を受け入れる場所があったのかと驚かされた。感ずるところはお金を落とすからという理由だけではなく、商店街の人たちも若者と話ができて嬉しいとか、若い人が商店街をウロウロしているのが商店街が活気付いている雰囲気を出しているといったことが理由にあるように思われる。

アルバイト先の会社と日本語教師

留学生がアルバイト先でしでかす不祥事の怒りの矛先は、日本語学校に向かう。日本語学校では、履歴書の書き方をはじめ、アルバイトに関する姿勢や態度、法律としてのルールなどの内容をオリエンテーション等を実施する。そしてアルバイト先を学校の掲示板に貼って案内する。希望する学生がいれば、学校側が会社に電話をして面接の日を決める。ここまでが仕事であり、アルバイト先での事は留学生個人の問題である。

しかし、余りにも態度の悪い学生については学校にクレームが入ってくる。また、学生とトラブルがあり学生に日本語がうまく通じない時も学校に電話がかかってくる。

よくあるケースでは、学生の無断欠勤やいきなり辞めることである。その他、アルバイトの面接でウソをついて働きだしてからシフトでもめる、仕事の初日に学生が来ない、アルバイトの面接とは違う学生がやってきて面接した学生の代わりに働きますと言うなどがある。

アルバイト先の日本人の方たちも、こうしたトラブルに振り回されていることだろう。特に、日本語学校の留学生と言う来日したての殆ど日本語ができない学生なのだから、そのストレスは果てしないものだろう。

こうしたアルバイト先のクレームに日本語教師は、即刻、学生を呼び出して対応している。そして、何度か対応していくうちにアルバイト先の担当者と仲良くなり、お互い様の関係ができてくる。

日本語学校としても、留学生の収入源である会社と仲良くしておくことは、万一の時に助かるのだ。

経営学の視点と社会学の視点の狭間

留学生が程々に日本語を勉強し、程々の専門学校に行き、単純労働のアルバイトである程度お金を稼いだら帰国する。

経営学的視点から言えば、日本の技術も盗まれない、労働力不足を補い、税金も払ってくれる、そして留学中は日本国内で様々な消費をしてくれる。ある種、日本にとっては都合の良い事だと言える。

一方、社会学的視点から見ると、留学生という貧困者、移民の労働力の搾取と言える。

そんな中、日本語学校日本語教師という教育側は何をすべきなのだろうか。個人的に思うのは、技術を盗まないようなモラルの育成と自分の身を守るための自立心やスキルであろう。ざっくり言うなら筋の通った生き方と筋の通った考え方を身につける事だ。もちろん、留学生本人の人生が実り多きものにするための日本語力の向上への配慮を大前提である。様々な議論を見てなんとなく思うことである。

筋を通す、個人的に尊敬するある方の格言である。

学生のやる気を引き出す方法

授業に集中する学生と集中せず堕落していく学生の違いは何だろうか。1つには勉強する目的が明確かどうかであろう。専門学校に行きたいです、大学に行きたいです、ではなく、どこの専門学校や大学で何を勉強したいのか、そのためにどの程度の日本語力が必要なのかが分かることだろう。そして、そのハードルが高すぎす、低すぎず、努力の範疇であることだ。プレスメントテストが学期途中で行われるなら、勉強するメリットを伝える必要もあるだろう。

今している事に何の意味があるのか、どうしてするのかが理解できると学生はついてくる。もちろん、それすら理解できない学生も少なくない。そうした学生は自己の状況判断が鈍いこともあるので、周りを焚き付けて1人置いてきぼりになるかの如く焦らせるか、見捨てずそれなりの道を探ることだろう。人生の選択は1つではないし、本人が納得する生き方であればそれは否定できないのだから。教師はいざという受け皿になってくれる進学先はそれなりの学生のために空けておき、頑張る学生にはそれなりの進学先を早めに紹介し、本人の努力を信じることであろう。

バタバタと倒れていく専任講師

新入生の担任は学生指導、二年生の担任はビザ更新や進学指導で、蒸し暑い日々の中で、その他のトラブル対応もするため、4月からの疲れがマックスになる。二年生の先生は突然倒れて授業ができなくなったり、朝の授業が始まっても出勤しなかったりする。そして一年生の先生も朝起きれず遅刻してきたり、授業中に倒れてしまう。これらのカバーをするために主任や余力のある他の専任講師が走る。夏休みを目の前であることを糧に今日も走り回る。

教師の教え方と学生の態度

教師の対応によって学生の学習態度も変わると以前書いたが、その仮説が本当なら、学生のキャリア形成にも影響があるだろう。

一流塾の講師が存在するように、もしかすると日本語教師にも一流の講師がいるかもしれない。

あくまで主観だが、日本語学習を長期的に続けるための動機付けにアプローチをする先生のクラスの学生は、なんだか安定感がある。安定感があるというのは、アルバイトと学習の両立をして遅刻はしない、授業中に寝ない、宿題は必ずする、小テスト勉強をする、授業にしっかり集中する態度が概ね良い状況である。こうした学生は、先生に教えてもらいたいという意識より、自分で勉強することを先生から教授を得ることで支えてもらいたいという意識が強いように思われる。この安定感は、個人の素養の他に、教師の学生指導や対応の仕方に少なからず影響を受け、学生の自律学習態度を育成しているように思われる。

もちろん、学習者の育成像が何かによっても評価の仕方は異なる。しかし、自律学習が求められ時勢に乗った見方をするのであれば、こうしたアプローチはぜひ取り入れていきたい。

客観視できなくとき 参与観察の危うさ

個人的な趣向として、観察の立ち位置はなるべく距離を保ちたい。客観的記述をしたいと日々心がけている。しかし、日々職場にいるといつの間にか当事者になってしまう。そして、見え方も価値意識も自分がそのコミュニティで社会化することにより、見えていたものが見えなくなってしまいそうになる。
あるトラブルに直面したときに、副主任の先生から、当事者が対応するより他の人が介入した方が効果があると指摘された。その時、自分自身がその現象の一部を構成していることに気づかされた。つまり、その時点で客観ではなくなっているのだ。
永遠と続く質的研究の議論に、改めて気づかされた。構成する一部であったとしても、どういうスタンスをとるのか、自分なりの考え方を整理しようと思えた出来事である。

まあ、ここではフレームワークもへったくりもないので、深く考える必要もないのだが。ただ自分も気づかないうちに客観視できなくなることに不安を覚える。